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​東京蛍堂について

​過去

蛍堂の過去 
蛍堂に初めて入った時の写真です。オーブも映っています。
元の野口食堂の写真が上から落ちて来たんです..!
古い船に乗り込むように壊れた箇所を一人で修復していたら、

ひとり又ひとりと蛍たちが集まって来て

手伝ってくれたり

教えてくれたり

助けてくれたり

癒してくれたり

物語にしてくれたり
だから
蛍たちに感謝しかないんです
嬉しい事がある度に自分にできる事はないかと考える日々です
不思議な事が多いです
16年になりました

現建物について

多分、、地元の人も知らない、、隠れた名所、文化遺産、、蜘蛛の巣だらけだった店内、怖くて入れなかった地下室の謎自分で調べると、、、大正時代からあった大衆食堂の従業員の宿舎跡地(現蛍堂)で本店が現在のかき小屋(壊された)と繋がって、こちらだけが、奥まって残された様です。古地図を見ると、本店を中心に半径五十メートル程、、現在の浅草公会堂前に豪華木造三階立とこの辺り一帯が★野口食堂関連跡地で、何棟も景気が良い時に建て増しで広がっていった様です。当店内奥の冷っとする半地下室が、食品の貯蔵庫。その上、中二階が控え室、アプローチ横が食堂メイン部分。二階や繋がっているところは、従業員が住んでいたようです。内装を見ていると1950~60年くらいの素材なので、戦争で爆撃された後地下室が残り、リフォームしたものだと思われます。そして、時代が変わり町も変わり、ここだけが取り残されてしまっていた状態でした。だから町の人も知りません。。私と蛍堂の最初の出会いの様子がこちら、、★当時のオリジナルの風合いを意識しながら、20年近くみんなで手作りで少しずつ内装しました。(漆喰、床等)。注意して散策して見て下さい…。至る所にその形跡が…。内装中に落ちてきた。当時の従業員の集合写真には、何かのお祝い事のようで、かなりの人数で写っていますから、大変規模が大きかった事が窺えます。呼ばれたな…”、これは、やるしかない”と…、野口食堂は、成瀬巳喜男監督『乙女ごころ三人姉妹』(1935年トーキー第1作)にも、活気ある浅草風景の中に出てきます…。

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​現在

コンセプトについて

懐古主義ではない

太古からつづく普遍的なデザインをさらい+現代のテクノロジーを合わせ

⇒未来へがコンセプト

​だって、、坂本龍馬が今生きていたらあんな恰好してないと思うし、、

もし、昔の人が蘇ってきたらコスプレか?と怒られないやうに。。

胸張って今生きています!と話せるように、、

20年近くお店に立って分かった事があります。

骨董をしていたのは、昔の日本の事や自分のルーツを知る為

オールジャンルでしていたのは、世界の良いものも見る為

浅草にしたのは世界からの日本の入り口

ず~っと考えて見ていた。。

人も。。

世界から浅草に沢山の外国の方が来店されます、、、

​自国が占領され消滅、、アイデンティティを奪われ、言論統制等

様々な事情で苦悩や困難を乗り越え

心の支えにしてきた憧れの日本にやっとのおもいで

来店されます、、

香港や中国、フランス、南アフリカ、、等等

ご自身で膨らませていた理想の日本。アイデンティティを求めて、、、

​​

そして、、

本当はそんな日本は無い現実。

環境や場所、時代によっても印象は違う

 

自分も同じだった、、

 

​しかし、それでいいと思う。

​カッコいいと思える事素敵だと思う事を

自分が信じて空想しエネルギーにする、、

そう。

 

それを決して消してはいけない

それこそが、魂で

唯一生きる為の理由なのだから、、。

 

ひとは最初は同調していても、きっと他人にはわからい、、

​振り出しに戻るだけだ。

だから他力でなくこんな感じ感覚の事。。。を表現する。

​この先の自分の理想を追い求めて。。。

その時間の中の勝手な互いの思い込みの接点で逢おう。

それが必要。

​またお別れです。

​旅人より。

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​未来

前略… 

蛍は、 浅草の蛍堂と 東京蛍堂が、新しい水を探して旅をします。  浅草のお店で古物から過去の日本の文化を知り、 日本中と世界を旅した20年間、考えた事は 実際に古い物を蘇らせて使って もっとじっくりゆったりとした世界、蛍の泉を作りたい。。 

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